唯一、島原大変で亡くなった子供の供養塔がある櫻井寺

日記

どうも!お腹が空きまくる私の胃は、まるでマグマだまりのよう、くらりんです。

雲仙岳噴火中の1792年に、発生した地震によって眉山が崩壊し、引き起こされた大災害「島原大変肥後迷惑」。
それに関する供養塔は数多く残されていますが、今回行って来た長崎県島原市にある櫻井寺には、「島原大変で亡くなった子供が祀られているお地蔵様がある」と聞きまして、詳しくお話を聞いてきました!

櫻井寺の場所

櫻井寺は島原市崩山町にあります。
崩山町は眉山崩壊の時に崩れた土砂で埋まったことから付けられた地名です。

櫻井寺の歴史

櫻井寺は、1611年(慶長16年)に家康の命を受けた幡随意上人(ばんずいいしょうにん)という名の浄土宗の僧侶によって開山されました。当初は「白毫寺」という名前でした。
幡随意上人は、当時藩主だった有馬直純と婚姻した家康のひ孫にあたる國姫の付人として、派遣されたと推測されてます。

1614年(慶長19年)に有馬直純が延岡へ国替えとなり、1616年(元和2年)に松倉重政が大和五条より移され島原の藩主となりました。この時に大和五条(現奈良県五條市)より櫻井寺も共に曳かれて来て、「白毫寺」改め「櫻井寺」となりました。

1637年(寛永14年)に島原の乱が勃発し、櫻井寺伽藍が焼失しました。
災難は続き、1792年(寛政4年)に島原大変によって、眉山のすぐ麓にあった櫻井寺は崩壊土砂に埋もれました

この後、埋まってから3ヶ月で同じ場所に再建されます。
(島原大変以前の資料は埋もれてしまい記録が残っていないようですが、当時の井戸が敷地内より見つかったことから、島原大変前と同じ場所に建っていることが分かったそうです)

亡くなった方々を供養する為、1794年(寛政6年)に「地蔵大菩薩像」1800年(寛政12年)に流死無縁供養塔が建立されました。島原大変肥後迷惑にまつわる供養塔のうち、唯一子供を祀ったものです。

六角堂にある流死無縁供養塔と地蔵大菩薩像

地蔵大菩薩像に代々伝わるお話

地蔵大菩薩像に入っている目のヒビについて、お寺に代々伝わるお話があります。

昔、子供を未亡人がいました。しかし、どんどん目が悪くなり「私が亡くなったら子供はどうなるんだろう」と心配し、お地蔵様に願掛けをしました。
そうすると、お地蔵様の目にヒビが入りました。途端に未亡人の目がよく視えるようになったのです。そして未亡人は子供を育て上げることができました。
未亡人が亡くなった時、その目は石のように真っ白になったそうです。まるでお地蔵様のように。

両目にヒビが入っている

幕府が直接関わった由緒あるお寺

今回は主に住職の奥様から沢山お話を聞きました。
何十年前かに再建したそうですが、その時に徳川家の葵の家紋がついた柱が何本も見つかったらしく、徳川家との繋がりが本当にあったんだと実感したそうです。

他にも沢山お話を聞きましたが、浄土宗に詳しくない為、理解が追いつかないことも多かったです。勉強しなければ(汗)

また、地蔵大菩薩像と供養塔が祀られている六角堂のすぐそばには、大きなイチョウの木が生えています。冬になると真っ黄色に染まって綺麗らしいので、見にいこうと思います!

六角堂のすぐ脇に立つ大きなイチョウの木。冬が楽しみ!

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